表紙 > 隠居からの手紙 > バックナンバーもくじ > 修理(最新号 令和8年5月)
道を歩いていて、二度ほど滑って転びそうになりました。靴を見ると底がすり減っていました。大森に用があった帰り道に靴屋を見つけました。小さな個人経営の店でした。ふらっと入りました。よさそうな靴を見つけ、サイズを言って履いて見ました。ぴったりでした。買うことに決めると、店員が、古い靴はどうしますと聞きます。もう古い靴でしたので、履き捨てる気持ちでした。処分してくださいと頼みました。古い靴を見ていた店員が、底を張り替え少し修理すればまだ履けますといいます。若くてかわいい店員にそう言われて気分が変わりました。即決で修理を頼みました。
10日ほどで電話があり、出来上がったというので、取りに行きました。上出来でしたが、7000円かかりました。残念ながらあの店員はお休みで、代わりはかなりくたびれた女性でした。それでも、物を大事にできたので、いい気分で家に帰りました。
家に帰って、ハタと困りました。下駄箱に修理のできた靴を入れる隙間がないのです。私の靴は、紐のある靴が一足、紐のない靴が一足、長靴が一足で、下駄箱にはそれしか入れられません。あとは妻の靴がいっぱいに詰まっています。妻はここ数年、車椅子の生活ですので、捨ててしまおうと何度も考えましたが、今だに実現していません。ようようガラクタの入っている棚を整理して、修理のできた靴の入れ場所を確保しました。新しく買った靴と、直した靴をこれからどう履き分けるのか悩むところです。
ここ数年で、私は三つの手術を受けました。初めは心臓、次は胃、三番目は腸でした。どの手術もうまくいったと医者は言いますが、どうも手術のたびに体力が衰えていったように感じています。今では杖を突かねば外出できません。
老人の病気治療は変なものです。全快しても人の役に立ちません。昔なら、横町のご隠居さんで、老人の智慧は役に立ちました。ところが今では、若いものに何かを教えるどころか、こちらが教えてもらわねば生きられません。コンピューターはもちろん、銀行のATM、スーパーのセルフレジ、ご飯を食べて支払いを済ませるのも一苦労です。ちょっと油断すれば特殊詐欺に引っ掛かってしまいます。
修理が終わり、下駄箱にしまわれた靴はいつか役に立つでしょう。体を修理した老人にそういう日は来そうにありません。果たして体を修理して長生きをすることに価値があるのかと疑問にさえ感じます。
幸い私たち夫婦は子供に恵まれ、当たりまえのように下駄箱に収まっています。近年、いろいろな事情や本人の考えで、一人で老境を迎える人も増えています。彼ら彼女はそれぞれの下駄箱を見つけているのでしょうか。
老人は何も生産しないのにお金ばかりかかります。老人医療、老人福祉を社会がささえきれなくなってきているともいわれます。老人は何か邪魔者だという風潮さえあります。
人の一生は千差万別です。それぞれ喜怒哀楽を越えて老境に達した人が安楽な余生を送れることは、ご褒美だともいえます。若い人たちが、老人に対して体を修理してゆっかり生きてくださいと言ってくれる世の中を望むのはぜいたくでしょうか。
石川恒彦