表紙 > 隠居からの手紙 > バックナンバーもくじ > 裁判員(平成19年4月)
最高裁判所が発行した「裁判員制度ブックレット」を読みました。うかつなことに、裁判員制度ができるとき、どんな議論があったのか、誰がこの制度を提案したのか、一つも注意をはらっていませんでした。
今この冊子を読んでみると、この大きな制度の変換が、本当に必要なものかどうか、疑問を感じずにはいられません。
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冊子によれば、裁判員制度を創設した理由は、(1)裁判を国民の身近なものにすること、(2)裁判員の負担を少なくする努力の結果、裁判にかかる時間が短くなること。この二つより無いようです。(3)裁判への信頼が低下したので、国民参加によって、信頼を回復したい。あるいは、(4)現行の裁判に不満のある国民が、裁判を職業裁判官に任せておけないので、裁判を一般国民の手に取り戻した結果、といった理由はないようです。
(1)国民の側から見て、司法が身近である必要はありません。司法は遠くにあって、万が一それを必要としたとき、公正に行われると、国民が信じられることが重要です。数々の冤罪事件や、故意とも思われる、憲法判断を忌避する裁判所が、国民の負託に応えているとは思えません。
(2)裁判の透明性の確保や迅速化は、訴訟指揮の問題ではないでしょうか。司法制度に染みついた数々の因習をなくす、裁判所自身の、努力が必要と思われます。裁判員制度を錦の御旗にそれを成し遂げようとするのは邪道です。
海外には陪審制や参審制があります。それらはそれぞれ制度的欠陥を指摘されています。日本の裁判員制度がそれをどう克服したかは、冊子からは分かりません。
想像するに、重大事件の有罪無罪の決定と懲罰を、裁判官だけでやるのは精神的に耐えられないし、自信もないので、裁判員を選んで、彼らにも責任を分担してもらおう、というのが、裁判員制度の本当のねらいではないでしょうか。
裁判員制度を維持するには膨大な官僚組織と、裁判員に選ばれた国民の多大な犠牲が必要です。裁判員に選ばれた国民が、それを断ることは難しく、断れば厳しい罰が待っています。裁判を生業とする専門家が耐えられない苦役を国民に押しつけるのは疑問です。
憲法第18条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
石川恒彦