表紙 > 隠居からの手紙 > バックナンバーもくじ > 成功体験(令和2年11月)
成功体験は人に自信を与えてくれます。どんな小さな成功でも、それを積み重ねていくと、人生を肯定的に過ごせるようになるといわれます。しかし、成功に酔うと、思わぬ落とし穴があります。
菅首相は、就任早々、その穴にはまったように見えます。学術会議の人事です。
菅氏は、官房長官として、高級官僚の人事を一手に握り、内閣の目指す政策を強力に推し進めることに成功し、評価を高めました。その成功が彼を、内閣総理大臣に押し上げました。国会での投票に先立つ、自由民主党の総裁選挙で、圧倒的な勝利を収めましたが、彼に疑問を持つ人も、人事での報復を恐れて、彼に投票したともいわれます。
その菅氏に最初に回ってきた人事案件の一つが学術会議の新会員の任命でした。従来、歴代の内閣は、学術会議の人事には介入しないことにしていましたが、菅氏は、その慣行をやぶったのです。今年できる欠員105名に対し、学術会議から105名の推薦がありました。そのうち6名の任命を拒否しました。
任命拒否の理由は明らかにされていませんが、誰の目にも明らかな理由があります。6名は、過去に、安全保障法に反対したり、共謀罪の構成要件の変更に反対したり、検事長の任期延長に反対したりしたりした人たちです。つまり反政府者とみなされたのです。
総理大臣には学術会議の議員任命の権限があります。菅氏は、法律を犯したわけではありません。それでも恣意的に任命が行われたと、問題視する声が上がりました。
まず、学術会議発足の歴史です。日本は先の戦争で惨敗を喫しました。今考えれば、あの戦争は、正義にもとるし、勝てないし、万が一勝っても経済的に割に合わないものでした。彼我の国力の差は大きく、すでに世界中で植民地反対ののろしが上がっていました。資源に乏しい日本は、植民地を得て資源を補充しなければ生きていけないといわれていました。しかし、識者の間では、植民地の経営に人とお金を使って資源を得るより、交易により資源を購入するほうが合理的だというのが常識でした
それなのに、学界は戦争に協力しました。あるものは積極的に、あるものは何も考えずに、また、あるものは強制されて。自由な言論が保証されていなかったからです。その反省から生まれたのが学術会議です。政府は金は出すが、口は出さないというのが原則です。政府に耳の痛いことを言うのが役割ともいえます。
忠告や諫言は、権力者にとって不愉快なもののようです。
イギリスの政治家チェスターフィールド(1694-773)は言っています。「忠告は滅多に歓迎されない。しかも、それを最も必要とする人が、常にそれを敬遠する」
しかし、それを受け入れられる度量こそが、大政治家の要件ではないでしょうか。徳川家康の言葉に、「およそ主君を諫める者の志、戦いで先駆けするよりも大いに勝る」があります。主君に諫言することは、主君の機嫌が悪ければ、命にかかわることでした。槍をもって、戦場で一番乗りするより危険でした。家康はそういう家臣を大事にしました。それが徳川300年の平和につながったのだと思います。
石川恒彦