表紙 > 隠居からの手紙 > バックナンバーもくじ > 融女(令和3年5月)
池上本門寺の正面の石段を上がると、右手に石碑が並んでいます。その中で、融女謝師恩碑(融女、師の恩に謝するの碑)が特異です。
漢字交じりの変体仮名の擬古文で書かれていて、さっぱり読めません。大森区史に読みが印刷されていると教えられました。大森区とは、戦前の行政区で、大森区と蒲田区が合併して、今の大田区になりました。
郷土資料がそろっている池上図書館に行き、昭和十四年発行の大森区史を借り、本門寺の項に載っている、融女謝師恩碑をよみました。
古い本で、紙は茶色になり、その上、小さい活字、さらに私は擬古文が苦手ときて、読むのに苦労しました。狩野派の絵師の記事であることはわかりましたが、それ以上は、はっきりしませんでした。
それが今、本門寺では、「本門寺の狩野派」という企画展が開かれています。早速、霊宝殿に出かけ、学芸員の安藤昌就さんに会うことができました。いろいろお話を伺い、その上、資料を沢山いただきました。おかげで碑の内容がわかりました。
榮という名の少女がいました。絵が上手で、七歳の時、板谷桂意に弟子入りしました。桂意は彼女の才能に驚き、奥絵師融川寛信の下で修行するように計らいました。たちまち才能を発揮して、十一歳の時には、師の名の一字を与えられて、寛好女となりました。二十二歳になると、さらに師の一字を与えられて、融女寛好と名乗るようになりました。明くる年、融川寛信は亡くなりましたが、融女寛好の盛名は上がり、百人に余る弟子を取るようになりました。これも師のおかげと感じて、師の二十三回忌に当たり、師恩を感謝する碑を建てることを発願したというのです。碑の背面には、資助をした六十六名の女弟子の名前が彫ってあります。
題額を揮ごうしたのは、表祐筆を務め能筆家と知られる男谷思考、一行約五十字、三十六行に及ぶ本文を選んで書したのは、国学者で「蝦夷志料」を編んだことで知られる前田夏蔭,それを石に刻んだのは、江戸の名工といわれた窪世昌です。
江戸時代は、男尊女卑の時代といわれます。その中で、才能と努力で、女絵師として一家をなし、当時一流の文化人の協力を得て、立派な謝恩碑を建てることのできた女性がいたことに感銘を受けました。
なお、師の融川寛信は腹切り寛信の異名があり、一説には、朝鮮通信使に贈る絵を、芸術を知らない老中になじられて切腹したといわれます。澤田ふじ子作「絵師の首」という小説があります。融川寛信の切腹に至る物語ですが、伝説とおそらくこの碑の文章を参考にして、創作されたものと思われます。ただ、融川と融女の間に情交があって、融女は、夫との房事に喜びを感じなかったとか、融女は、切腹した融川の首をもって、老中の屋敷へ行こうとしたとか、いささか飛躍した想像が入っています。
安藤さんの読みでは、二字が欠字になっています。九十年前の大森区史では、「この」と読んでいます。現在の石碑のその部分を見ると、確かに最近に剥落しています。歳月が、石に刻んだ文字でも消していくのは、諸行無常そのものです。
石川恒彦