表紙 > 隠居からの手紙 > バックナンバーもくじ > 憶測(令和5年3月)
在宅医療の先生には、大変お世話になっています。月に二回、診察に来てくださいます。お忙しいようで、「遅くなってすみません」といいながら玄関に飛び込んできて、挨拶もそこそこに、二階の妻のベッドに駆け上がられます。ところが診察は丁寧で、ゆっくり時間をかけて体中を見てくださいます。私たちの質問にも嫌がらずに答えてくれます。
先生には、いつも看護師が付いてきます。二人いて、毎回そのうちの一人が付いてきます。体温や血圧を測りタブレットに何か書き込んでいます。先生のPCとは連動しているようで、先生が処方箋を作ると、それを印刷して先生のハンコをもらい、家族に渡してくれます。
そのうち家族の誰かが、先生と看護師の一人が同じ姓の名札を付けているのに気が付きました。
「ご夫婦だろうか」
「違うだろう」
「でも、彼女が仕事に遅れているとき見る眼は、夫のイライラ眼じゃないかな」
「先生はどこかの島で働いていた時があったらしいよ。そこで看護師さんと結婚して東京に来たんじゃないの」
「それじゃ、その島は、無医村、無看護婦村だわ」
「誰か聞いてみてよ」
「失礼だよ」
家族の論争は大いに盛り上がりました。(先生、はしたない家族をお許しください)
最近になって、次女がやって来ました。
「お父さん、問題解決よ。あのお二人は、夫婦なんかじゃないし、名前の読み方も違うのよ。それに彼女は看護師じゃなく助手ですって」
「誰に聞いたんだ」
「次男の野球のチームメイトのお母さんが、同じ診療所で働いていて、その人に聞いたんだから確実よ」
東海林=とうかいりん、しょうじ。羽生=はにゅう、はぶ。時々同じ漢字を書いて別の読み方をする名前があって混乱します。ご当人たちが知れば不愉快でしょうが、これは漢字表記にまつわる下卑た憶測でした。
憶測は時に悲劇を生みます。ロシアのプーチン大統領は、ウクライナに軍隊を派遣し、今の政権を倒せば、ウクライナ市民は花束をもって、兵隊たちを歓迎すると憶測していたらしいといわれています。
憶測は外れ、ウクライナは花束の代わりに砲弾をお見舞いしました。ヨーロッパやアメリカも敏感に反応し、武器や弾薬をウクライナに届けています。しかし、よっぽど上手に戦わない限り、最後は、人口1億4千万のロシアが人口4千万のウクライナを蹂躙するでしょう。アメリカがウクライナを応援している事実は、冷戦の記憶が新しいロシア市民を好戦的にすると憶測するからでもあります。
独裁者の甘い憶測が、無益な殺人と破壊を生みました。
石川恒彦