表紙 > 隠居からの手紙 > バックナンバーもくじ > マイティ・ハート(平成20年1月)
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など、一神教の間の争いは、今も昔も、激しいものがあります。現代では、ユダヤ・キリスト連合対イスラムの抗争が顕著で、劣勢なイスラム教徒の一部はテロリズムに訴えています。テロとの戦いと、非イスラム社会は叫びますが、一向に有効な策を打ち出せないでいます。
その対立の中、仏教が果たせる役割があるのではないかと、考えさせられた映画を見ました。映画「マイティ・ハート」です。数年前、パキスタンで、ウォール・ストリート・ジャーナルの記者が殺されました。この映画は、殺されたダニエル・パールの妻、マリアン・パールの手記に基づいて制作されました。
パキスタンから帰国直前のダニエルは、罠にかかって誘拐されます。宿を兼ねた事務所には、妊娠中の妻マリアンが残されます。誘拐の報を受けて、パキスタン政府の様々な部門から捜査官がやってきますが、結局、非常に優秀なパキスタン警察の捜査幹部を中心に、アメリカ、フランスの捜査官も加わって捜査を進めます。ダニエルの勤める新聞社からも、マリアンの勤めるフランスの放送局からも応援がやってきます。マリアンは被害者でありながら、様々な関係者の調整役を務めます。誘拐犯はパキスタンとアメリカの政府に、とても受け入れられない条件を突きつけます。犯人たちは、単なる誘拐犯ではなく、テロリストに間違いありません。彼らは非常に巧妙な組織を作っていて、なかなか核心に近づけません。それでも努力が実って、燭光が見えてきたとき、ダニエルは残忍なやり方で殺されます。
殺されたダニエルはユダヤ人でした。彼が殺されたのは、解放のための交渉が行き詰った結果というより、彼がユダヤ人だとわかってしまったことのほうが大きな理由だったようです。しかし、ユダヤ人即排他的ユダヤ教徒というわけではありません。ダニエルは、人間は理解しあえると信じています。戦争をはじめとするあらゆるいがみ合いは、相互の無理解に原因があると考えています。記者の仕事は、その理解を助ける情報を提供することだと信じています。ユダヤ・キリスト教国のジャーナリズムは、ともすれば、イスラムをさげすむ傾向があります。ダニエルはそのような傾向に加勢しません。彼の誘拐事件が起こった時、彼の記事を読めば、過激派も彼に危害を加えないだろうと、上司や同僚が考えたほどです。
ところが、過激派とかテロリストと呼ばれる人々は、言葉によって自分たちが理解されることをとっくにあきらめています。絶望的な暴力によって、自分たちの主張を認めさせようとしますが、彼ら自身もその結果に希望を持っているわけではありません。そのむなしさが彼らをますます暴力に走らせます。
その暴力にダニエルは殺されます。しかし、マリアンは特定の個人や、組織や、宗教や、国を非難しません。彼女もまた相互理解による平和の構築に希望を持っているからです。暴力に妥協しないことによる、自分たちの信念の勝利をマリアンは確信しています。その確信の力となっているのが仏教です。
捜査が進まず、絶望的な気持ちになった時、マリアンは、自分の部屋に戻り、暗闇の中の何かに向かって、突然「南無妙法蓮華経」と、お題目を唱えます。映画の前半で、彼女が仏教徒であることは明かされていましたが、ちょっと驚きました。マリアンに興味を持った私は、映画の帰りに本屋により、原作を買いました。マリアンは創価学会員でした。彼女がどのような経緯で学会員となったのかは記述がありません。彼女は私たちが先入観で持っている学会員の姿とは違うようです。映画では、彼女は教派的な仏教徒としてではなく、普遍的な仏教徒として描かれています。
寛容な精神、物事を相対的、客観的、総合的に見ようとする態度、人間は理解しあえるのだという信念、私たちがともすれば忘れがちな仏教の根本です。一神教内部の激しい戦いを鎮めるため、仏教が果たせる役割を示唆しています。
映画では、マリアンがマイティ・ハート(寛大な心)のように受取れましたが、原作ではマリアンがダニエルをマイティ・ハートと呼んで本をささげています。正しくは、映画の題を「マイティ・ハーツ」と複数にすべきだったと思いました。
石川恒彦