表紙 > 隠居からの手紙 > バックナンバーもくじ > 目から鱗が(平成24年7月)
先日の日本対オーストラリアのサッカー、本田がフリーキックを蹴ろうとしたら、笛が鳴って、試合終了。
ちょっと腑に落ちなかったのですが、解説者が、審判の笛は絶対で、こういうことはよくあるというので、なんとなく納得しました。
ところが後日、この笛に対する批判記事が新聞にありました。
いわく、「フリーキックは相手が反則を犯したから得るもの。もし時間が来たからと蹴らせなければ、反則が罰せられないことになり公正ではない。こういうことが横行すれば、どのチームも、時間間際の絶体絶命の場面で、罰を考えずに、反則を犯すようになり、後味の悪い試合が増えることになる。結局、サッカー試合の興味をそぐことになる」
目から鱗(うろこ)が落ちました。
福島第一原発暴走の時、当時の菅首相が視察に行ったことが批判にさらされています。
首相への対応に追われ、現場は混乱、事故収束のための作業に多大な影響を与えたといいます。
人気のない首相が、大事故を前にして、この時とばかりに、張り切りすぎて、失敗したのだな、ただ、事故について情報がなかなか来なかったというから、自分で見たいと思うのも仕方がないのかなと、思っていました。
ところが最近、昔、福島第一原発の所長だった人が新聞の質問に答えていました。
「東電本店は、菅首相の視察を絶対阻止すべきだった。本店は、首相が来れば事故に必死に向き合っている現場がどんなに混乱するか知っていたはずである」
また目から鱗が落ちました。
東京電力は私企業です。私企業の敷地には、首相といえども妄りに入れません。東電本店が混乱を予測できたなら、当然拒否できました。
もし菅氏が、それでも視察を強行しようとしたなら、ヘリコプターの発着所にトラックを並べて、物理的に阻止することもできたはずです。東電本店ははじめ、首相の現場視察に危機感を抱かず、事故が拡大してから、責任を首相の視察に押し付けた感も否めません。東電首脳も、菅氏同様、現場で懸命に働く人のことを大切にしていなかったのではないでしょうか。
ジャイナ教にアネーカンタワーダという考えがあります。
非絶対論とでも訳すのでしょうか。人間が事物をとらえるとき、絶対ということはないという考え方です。
たとえば、一枚の白い紙があります。表を見る人と裏を見る人では印象が違います。
緑の森で白い紙を見るときと、夕日の中で見るのとでは違って見えます。斜めから見て真四角の紙と思ったのが、正面から見ると長方形の紙だということもあります。
一枚の紙ですら見え方は様々です。まして、もっと複雑なものになれば、人間の印象とそれから生み出される思考は千差万別です。絶対という見方考え方は無いというのがアネーカンタワーダです。
この考えがジャイナ教の平和主義のもととなり、また仏教の空の思想ともつながっていました。
私たちの知識には限りがあります。新しい知見を聞いて目から鱗を落とすことはしょっちゅうあります。
ところが、私たちは、自分の知識に執着しがちです。
石川恒彦