表紙 > 隠居からの手紙 > バックナンバーもくじ > 風呂焚き(最新号 令和7年1月)
小学校の生徒が、教室を掃除したり、給食を当番で配ったりするのは、私たちには当たり前の光景です。しかし、外国の人から見ると随分奇異な風景だといいます。中には、幼児労働だといって非難する人もいますが、日本人の公共心を養う原点だといって、肯定的に見る人も増えているようです。
最近では、子供がお手伝いをすると、お小遣いをあげる家庭も増えているようですが、私の子供のころは、家庭の仕事をするのは子供にとって当たり前のことで、お小遣いは仕事に結びついていなかったように記憶しています。
当時は、戦災のあとで、料理屋などの場所が限られていましたので、お寺や町の会合は、よくお寺の部屋が使われました。酒食を伴う集まりですと、私も台所に入り、何かと下働きをしました。好きだったのは、燗番でした。うるさい人が多く、お燗を適温にしないと怒られました。銚子を外から触っても、中を覗いて泡の具合を見ても、お燗の付きようがよくわかりません。
そこで、お猪口に少々酒を注いで口に含み温度を見ました。ついでに酒を味わいました。そのころから、酒の味を憶えました。以来、インドに滞在していた時を除き、私の身体から酒が抜けた時はありません。内臓はボロボロですが、84歳まで生きたので、酒を楽しめ、得をした気持ちです。
風呂焚きもよくやりました。中学校に入ったときに、将来僧侶になることを決心しました。そこで、お経の稽古をすることになりました。夕方になると、薪を割ってから、本門寺にいるお経の師匠のところに通いました。
西部劇や時代劇では、ときどき薪割の場面があります。斧を振り上げて落とすと薪がスパッと割れます。あれは性のいい薪を割っているからできるので、戦後の寄せ集めの薪を割るときはそうはいきません。節だらけだったり、根っこに近かったりすれば、割れそうな場所をよく見定めて、何度も振り下ろさねば割れません。苦労したものです。
帰ると風呂焚きです。五右衛門風呂でしたので、焚口は地面を掘ったところにありました。薪を風通しのいいように積み、その下に薪割で出た木の破片を突っ込み火をつけました。いい加減にやると、途中で消えてしまいます。ずいぶん工夫しました。後年、外国で薪ストーブに火をつける機会がありました。一回でうまく火をつけたので感心されました。
知人とたまたま風呂焚きの話になりました。彼は三人兄弟の末っ子で、いつも風呂焚き当番でした。高校生の時、沸いた風呂に帰省していたお兄さんが入ってきました。釜の前で薪をくべていると、兄貴が話しかけてきました。「お前、これからどうするつもりだ」「別に考えていません」「そうか、お前も大学に行くんだな。俺の使った参考書があるから勉強しろ」
そこで知人が言うには、風呂を焚きながら、チョコチョコっと参考書を勉強して東大に入ったんだそうです。三人兄弟、皆、東大です。不愉快ですね。
彼と私は違う人生を歩みましたが、若いときの労働、特に風呂焚きでは話が弾みました。教育というと、学校、塾、習い事に目が行きますが、何か仕事をさせるのも、大切な教育の一環ではないでしょうか。
石川恒彦